2006年03月15日

西芳寺 (苔寺)

西芳寺 (さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。一般には通称の苔寺で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

<起源と歴史>
寺伝では今、西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にしたもので、当初は「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗の寺であったという。その後、空海、法然などが入寺したと寺伝には伝える。こうした寺伝は額面どおり受け取ることはできないが、何らかの前身寺院があったものと思われる。

近くにある松尾大社の宮司藤原親秀(ちかひで)は、暦応2年(1339)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石(夢窓国師)を招請して、すっかり荒れ果てていたこの寺を禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来するという。

西芳寺は応仁の乱(1467−1477)で焼失。江戸時代には2度にわたって洪水にも見舞われて荒廃した。荒廃した庭園が苔でおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。

西芳寺はかつては誰でも参観できる観光寺院であったが、1977年からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となっている。単なる観光や見学ではなく、写経などの宗教行事に参加することが条件となっている。

<伽藍>
境内東側は黄金池を中心とした苔の庭園であり、東側には本堂(西来堂)、書院、三重納経塔などがある。庭園内には湘南亭(重文)、少庵堂、潭北亭(たんほくてい)の3つの茶室がある。境内北側には枯山水の石組みがあり、開山堂である指東庵が建っている。

このほか境内には高浜虚子の句碑や大佛次郎文学碑などがある。

・本堂(西来堂)−1969年の建築で、本尊阿弥陀如来を安置する。襖絵は堂本印象の筆である。
・三重納経塔−1978年建立の三重塔で、信者の写経を納めている。本尊は薬師如来である。
・湘南亭(重文)−夢窓疎石の時代に建てられ、その後荒廃していたのを、千利休の次男・千少庵によって再興された茶室。板貼りの露台(バルコニー)をもつ。幕末には岩倉具視がここにかくまわれていたことで知られる。
・少庵堂−千少庵の木像を祀る。1920年の建築。
・潭北亭−1928年、陶芸家の真清水蔵六(ましみずぞうろく)から寄進された茶室である。「湘南亭」「潭北亭」などの建物の名勝は中国の禅書『碧巌録』に出てくる句にちなむものである。

<文化財>
西芳寺庭園(特別名勝・史跡)−夢窓疎石の作庭で、上段の枯山水と、下段の池泉回遊式庭園の2つから成っていた。境内北方には上段の枯山水庭園の石組みが残り、この部分には夢窓疎石当時の面影が残っていると想われる。今日、西芳寺庭園としてよく知られるのは苔の庭で、木立の中にある黄金池と呼ぶ池を中心とした回遊式庭園である。池には朝日島、夕日島、霧島と呼ぶ3つの島があり、池の周囲は100種類以上といわれる苔で埋め尽されている。苔は夢窓疎石の時代からあったものではなく、今のような苔庭になったのは江戸時代も末期のことといわれる。

有形文化財としては夢窓疎石の画像(重文)がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%8A%B3%E5%AF%BA」より引用

京の四季 春・夏
京の四季 春・夏

モダン盆栽 クロマツ 錫(すず)鉢
モダン盆栽 クロマツ 錫(すず)鉢

日本の世界遺産
日本の世界遺産

堤照男『苔寺(西芳寺)』油彩画 F10号
堤照男『苔寺(西芳寺)』油彩画 F10号

『後世に伝えたい文化遺産 珠玉の仏教美術(DVD)』
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2006年03月10日

東本願寺

東本願寺(ひがしほんがんじ)とは、浄土真宗の一派、真宗大谷派の本山の通称。現在、正式には真宗本廟と称する。本願寺の第十二代教如(本願寺光寿)が、徳川家康によって本願寺の東に寺領を与えられ、1602年に本願寺が二つに分かれたとき、教如が開いた寺。現在の京都市下京区烏丸六条に位置し、堀川六条に位置する本願寺の東になるため、東本願寺と称されるようになった。愛称「お東さん」。

江戸時代に4度の火災に遭っており、現存建造物の多くは明治期の再建だが、建築・障壁画等は当時の技術の粋を集める。親鸞聖人像を安置する御影堂は世界最大級の木造建築物である。親鸞自筆の教行信証(国宝)を所蔵。近接する飛地境内地の渉成園は国の名勝。現門首は大谷暢顕(浄如)。

1908年から真宗大谷派の僧等が大連に布教するとともに建立された本山と同名の寺が存在した。第二次世界大戦後は大連図書館の一部として使用され、現在は大連京劇団の舞台として現在も当時のままの外装を止めている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA」より引用

寂聴の古寺礼讃
寂聴の古寺礼讃

京都写真名所図絵
京都写真名所図絵

『京都の四季(ビデオ)』
『京都の四季(ビデオ)』
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2006年03月08日

南禅寺

南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)である。皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものである。京都五山の上位(五山第一位の天龍寺よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇る。

<起源と歴史>
南禅寺の地には亀山天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮・禅林寺殿があった。「禅林寺殿」の名はすぐ北に浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(現存)があることによる。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院はその後身である。

亀山天皇は文永11年(1274年)退位して上皇となり、正応2年(1289年)、40歳の時には落飾(剃髪して仏門に入ること)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門(大明国師)を開山として、龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没し、亀山法皇やお付きの官人たちを悩ましたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

無関普門(1212−1291)は、信濃国(長野県)の出身。東福寺開山の円爾弁円(えんにべんねん)に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)日本へ帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾弁円の死に際し、弘安4年(1281年)、東福寺の住持となった。南禅寺の開山として招かれたのは没年の正応4年(1291年)であった。

開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には2世住職の規庵祖円(南院国師、1261−1313)が担当し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299−1302)のことという。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。

建武元年(1334年)後醍醐天皇は南禅寺を京都五山の第一とした。至徳3年(1385年)足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第2位に位置づけるとともに南禅寺を「別格」として五山のさらに上位に位置付けた。

室町時代には旧仏教勢力の比叡山延暦寺や三井寺と対立して政治問題にもなり、管領の細川頼之などが調停する。また、明徳4年(1393年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と火災で主要伽藍を焼失し、応仁の乱以降は再建も思うにまかせなかった。

主要伽藍の復興が進んだのは、江戸時代になり、慶長10年(1605年)以心崇伝(1569−1633)が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗寺院の元締めにあたる役職である。

<伽藍>
・勅使門−寛永18年(1641年)、御所の日ノ御門を移築したものという。

・三門−歌舞伎の「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)で石川五右衛門が「絶景かな」と見栄を切るシーンに登場する門である(石川五右衛門がこの門に上ったというのは架空の話で、門は五右衛門の死後に建ったものである)。五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建の門)。藤堂高虎が、大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したもので、寛永5年(1628)の建築である。上層は「五鳳楼」と称され、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大阪の陣の戦死者の位牌を安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。

・法堂(はっとう)−1895年(明治28年)にこたつの火の不始末で焼失した後、1909年(明治42年)に再建されたもの。
方丈(国宝)−大方丈と小方丈からなる。大方丈は、慶長度の御所建て替えに際し、天正年間(1573−1592年)建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間(1624−1644年)の建築とされる。大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、柳の間、麝香(じゃこう)の間、御昼の間、花鳥の間(西の間)、鶴の間、鳴滝の間の6室にある襖、壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、建物の移築に際し、襖の配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と思われる。方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作と言われ、「虎の子渡しの庭」の通称がある。

・金地院(こんちいん)−南禅寺の塔頭(たっちゅう、子院)の1つで、勅使門の手前右側に位置する。応永年間(1394−1428年)、洛北鷹ヶ峯(京都市北区)に大業和尚が創建し、慶長10年(1605年)頃、以心崇伝によって現在地に移築された。方丈は桃山城の遺構を慶長16年(1611年)に移築したものという。庭園(特別名勝)は「鶴亀の庭」と言われ、小堀遠州の作とされている。

<湯豆腐>
南禅寺周辺参道の勧進料理が起源とされる。

<山形県鶴岡市の豆腐>
山形県鶴岡市では、南禅寺という名でほぼ半球の形をした豆腐が売られている。江戸時代に、西廻り航路を北前船に乗って京都から伝わったといわれている。夏になると、豆腐屋を始め、スーパーでは必ず見かける。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA」より引用

五木寛之の百寺巡礼(第3巻)
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京都古寺の庭をめぐる
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【だだちゃ豆&冷奴】南禅寺豆腐セット山形県庄内地方の夏限定丸〜い冷奴と枝豆の王様
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南禅寺の四季
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2006年02月13日

仁和寺

仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院である。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」(おむろごしょ)の別名がある。御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。また、徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。古都京都の文化財の一部として、世界遺産に登録されている。

<起源と歴史>
仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年死去した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888年)に落成し、年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。

仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の住職を務めた。室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、徳川家光の寄進により伽藍が整備された。また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。

<伽藍>
金堂(国宝)−慶長18年(1613年)に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624年-1644年)に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として貴重である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、宮殿建築の雰囲気をよく残している。

御影堂(重文)−旧皇居の清涼殿の用材を用いて建設したもの。宗祖空海を祀る。

仁和寺御殿−仁王門から中門に至る参道の西側に位置する仁和寺の本坊で、宇多法皇の御所があった辺りに建つ。近世初期の皇居・常御殿を移築したものであったが、1887年(明治20年)に焼失。現在の建物は明治時代末〜大正時代初期に再建されたものだが、庭園とともにかつての宮殿風の雰囲気をただよわせている。

その他、五重塔、経蔵、九所明神社本殿、御影堂中門、観音堂、鐘楼、仁王門、中門、本坊表門、茶室遼廓亭、茶室飛濤亭(以上重文)などがあり、大部分は徳川家光の寄進で寛永年間に整備されたものである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA」より引用

仁和寺 公式サイト:
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/ninnaji/
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2006年02月09日

東寺(教王護国寺)

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある、空海ゆかりの寺院である。山号は八幡山、本尊は薬師如来。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

<概要>
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。

<「東寺」と「教王護国寺」>
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称がある。「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての正式名称は「教王護国寺」であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は「教王護国寺五重塔」となっている。しかし、平安時代から21世紀に至るまで、この寺はもっぱら「東寺」と称され、「教王護国寺」という名称は実際にはほとんど使われてこなかったことも事実である。「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類には一切見えず、この寺号の文献上の初出は仁治元年(1240年)である。後宇多天皇直筆の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)や、南北朝時代に成立した東寺の正式の記録書である「東宝記」にも明確に「東寺」と表記されている。

<起源と歴史>
『東宝記』(南北朝時代に成立した、東寺の記録書)の記載によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

弘法大師空海(774年−835年)は、讃岐国(香川県)出身の僧。真言宗の開祖であり、東寺と高野山(金剛峰寺)の基礎を築いた実在の人物であるが、後世には空海自身が「お大師様」として信仰の対象となり、なかば伝説化された存在となっている。30歳頃までの青年期には奈良の寺々で学問にはげみ、山林に分け入って修行していた無名の僧であった空海は、延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡った。彼は当時の唐の都・長安(現・西安)で青竜寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義の伝授を受け、2年後の大同元年(806年)に帰国した。空海が、若い頃に修行したことのある高野山を下賜されたのは弘仁7年(816年)のことであり、その7年後の弘仁14年(823年)に東寺を下賜されている。

東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年-1252年)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。

中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家、徳川家などの援助により、金堂、五重塔などが再建されている。

<弘法市>
毎月21日は弘法大師にちなみ「弘法市」が開かれ、縁日が並ぶ。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている。特に師走21日の「終い弘法」には、多くの人々が詰めかける。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%8E%8B%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AF%BA」より引用

東寺縁日 弘法市:
http://www.touji-ennichi.com/

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2006年02月05日

金閣寺(鹿苑寺)

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。

<歴史>
通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築で、初層は寝殿造風で「法水院」と称し、二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋上には鳳凰が飾られている。

この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされて鹿苑寺と名付けられた。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。

鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。林は寺の裏山で自殺を図った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。この事件は三島由紀夫の小説「金閣寺」、水上勉の小説「五番町夕霧楼」、「金閣炎上」の題材にもなっている。

現存する金閣は1955年(昭和30年)に旧状どおり再建されたものである。

なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満にならい、銀閣を建てた。

<その他>
鹿苑寺は世界遺産(古都京都の文化財)に登録されており、庭園は国の特別史跡、特別名勝である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA」より引用

金閣寺(臨済宗相国寺ホームページ内):
http://www.shokoku-ji.or.jp/kinkakuji/index.html

日本の観光マウスパッド金閣寺Mouse padKinkakuji
日本の観光マウスパッド金閣寺Mouse padKinkakuji

【2割引SALE】らくらくパズル60P「金閣寺」 ◆子供でも簡単!大きなピース
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金閣寺月明【木版画】(加藤 晃秀)
金閣寺月明【木版画】(加藤 晃秀)
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2006年02月02日

三千院

三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡(−もんぜき)とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている(門跡寺院とは、皇室や摂関家の子弟が入寺する特定の寺院のこと)。

<起源と歴史>
三千院の境内には宸殿、客殿、往生極楽院などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は平安時代末期、12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。杉木立の中に建つ往生極楽院の写真は旅行案内書等にしばしば使われ、大原のシンボルともなっているが、往生極楽院と三千院は元来別個の寺院であった。往生極楽院(旧称極楽院)は、12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂である。一方、三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする円融房を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもっていた。貞観2年(860年)、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を「円徳院」と称し、山上の寺院を「円融房」と称したという説と、「円徳院」と「円融房」は別個の寺院だとする説とがある。元永元年(1118年)、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。坂本の円融房には加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を梶井宮と称するようになったという。最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の地位)に任命された。同じ年、比叡山の北方の大原(京都市左京区大原)に梶井門跡の政所(まんどころ、管理事務所)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう、844−897)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子(あきらけいこ)が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073−1132)も大原に住んだ。

坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467−1477)で焼失し、以後、大原の政所が本坊となった。元禄11年(1698年)、将軍徳川綱吉は当時の門跡・慈胤法親王に対し、御車道広小路に寺地を与え、以後近世を通じて梶井門跡はこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(げんぞく、仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、寺町広小路にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め、「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである。ちなみに「一念三千」とは天台大師智[]覆舛�)の『摩訶止観』にある教義である。

一方、極楽院(現・往生極楽院)は、寺伝では恵心僧都源信(942−1017)の妹、安養尼が寛和元年(985年)に建てたものと伝えられてきたが、実際はもう少し時代が下り、12世紀末、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼という女性が、亡き夫の菩提のために建立したものである。極楽院を建立したのが真如房尼であるということは、彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかになっている。1871年に三千院の本坊が洛中から移転してきてからは、その境内に取り込まれている。極楽院を「往生極楽院」と改称したのは1885年(明治18年)のことである。


<伽藍>
正門にあたる境内南側の朱雀門は常時閉じられており、西側の御殿門から入る。城郭を思わせる寺周囲の石垣、白い土塀、門構えなどが門跡寺院の風格を示している。境内北側には宸殿、客殿とそれらを囲む有清園、聚碧園と呼ばれる池泉回遊式庭園がある。南側は、瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭園の中に往生極楽院が建つ。

・宸殿−1926年(大正15年)の建築。中の間には本尊の秘仏薬師如来像、西の間には木造救世観音半跏像(重文)、木造不動明王立像(重文)などを安置する。東の間には下村観山の障壁画がある。本尊薬師如来像は非公開だが、2002年9月8日〜10月8日に開扉されたことがある。

・客殿−慶長年間(17世紀初)に建て替えられた旧御所の旧材を用いたものである。障壁画は竹内栖鳳など、近代日本画の巨匠が担当している。

・往生極楽院(重文)−入母屋造、柿(こけら)葺き、妻入(屋根側面が三角形に見える側を正面とする)。内部は船底天井(船底のような形状に板を貼り、中央部を高くした天井)として、中尊の像高2.3メートルの阿弥陀三尊像を堂内の空間一杯に安置する。平安時代末期、12世紀の創建だが、江戸時代の元和2年(1616年)に大幅な修理を受けており、建物の外回りはほとんど江戸時代のものに変わってしまっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%99%A2」より引用

三千院 公式ホームページ:
http://www.sanzenin.or.jp/

きょぉ〜と〜 お〜はら さん・ぜん・いん。
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2006年02月01日

清水寺

清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。

清水寺は、金閣寺(鹿苑寺)、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産にも登録されている。

<起源と歴史>
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次のとおりである。宝亀9年(778年)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758‐811)は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年(798年)、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。

以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年については宝亀11年(780年)でなく延暦17年(798年)とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもとにしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。

延暦24年(805年)に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。

清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する。

清水寺は、京都では珍しい法相宗(南都六宗の1つ)寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されている。

<その他>
毎年12月12日(漢字の日、ただし事情によりずれる場合もある)に日本漢字能力検定協会主催で「今年の漢字」が選ばれ、清水寺で発表される。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA_%28%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%29」より引用

清水寺 公式ホームページ:
http://www.kiyomizudera.or.jp/

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posted by 西大路丸太 at 12:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 観光スポット(寺院)

2006年01月31日

三十三間堂

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市東山区にある寺院で、正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。現在は、同じ東山区にある天台宗妙法院が所有・管理している。山号:なし。本尊:千手観音。開基:後白河上皇。

<沿革>
この地には、後白河上皇の離宮法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。上皇が平清盛に命じて長寛2年(1164)に完成したという。当時は五重塔なども建つ本格的な寺院だったが、建長元年(1249)の火災で焼失。文永3年(1266)に本堂のみが再建されている。現在残る堂がそれである。

「三十三間堂」の名称は、本堂の内陣の柱間が33あることによる。今日では「間」(けん)といえば6尺のことであるが、かつては建造物の設計の基準となる柱間の長さのことを「間」と呼び、特に長さは定められていなかった。三十三間堂の柱間は12尺で、今日の間では2間に相当する。

江戸時代には各藩の弓術家により本堂の軒下(長さ約120m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。その伝統に因み、現在は毎年1月15日に、弓道をたしなむ新成人が振袖に袴を着け、本堂西側の射程60mの射場で矢を射る「大的全国大会」が行われ、一般的には「通し矢」と呼ばれている。60mは一般の弓道競技の「遠的」の射程であり、この大会の射法も遠的と同様である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%96%93%E5%A0%82」より引用

ジャイアント馬場の足はは十六文やったな。
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2006年01月27日

慈照寺(銀閣寺)

慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にあり、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院。通称銀閣寺(ぎんかくじ)、山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。(夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。)

足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称することから、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。

<沿革>
室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。

当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。

1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。

戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年3月29日には庭園が 特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E7%85%A7%E5%AF%BA」より引用

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2006年01月25日

本能寺

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の寺院。本尊は日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅本尊とする。


本能寺は、当初は本応寺という寺号で、室町時代の1415年(応永22年)京都油小路高辻と五条坊門の間(現在の仏光寺のあたり)に日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。1429年(永享元年)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、1433年(永享5年)如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を本能寺と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m²)の敷地を有し、また多くの子院も有していたが、1536年(天文5年)比叡山との狭義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇箱とごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。

その後、1547年(天文16年)〜1548年(天文17年)のころ帰洛し、伏見宮第5代那高親王の子日承上人が入寺し、第8世を称し四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。しかし、1582年(天正10年)6月2日日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていた織田信長が、明智光秀の謀反により自刃した事件(いわゆる本能寺の変)により堂宇を焼失した。

現在の寺域(中京区寺町御池下ル)は1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で移転されたものである。伽藍の再建は1592年(天正20年)で現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であった。

江戸時代初期の1615年(元和元年)に幕府から朱印寺領40石を与えられた。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深く、江戸時代には末寺92を数える大寺院であった。しかし、1788年(天明8年)1月の天明の大火、1864年7月の蛤御門の変(禁門の変)により堂宇を焼失している。

元の本能寺は現在の中京区元本能寺南町にあった。この場所には本能小学校があったが、1990年代に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。 現在は本能寺会館という場所の裏にひっそりたたずんでいる。

上記の写真でもわかるように本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。


<住所>
〒604-8091 京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522

<アクセス>
京都市営地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩すぐ
京都駅からバス17・205系統のバス20分、「河原町三条」下車すぐ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA」より引用
posted by 西大路丸太 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 観光スポット(寺院)


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