2006年07月05日

一条戻橋

一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋である。単に戻橋ともいう。

794年の平安京造営のときに架橋され、橋そのものは何度も作り直されているが、現在でも同じ場所にある。一条通は平安京の一番北の通りであり、洛中と洛外を分ける橋でもあった。この橋には、様々な伝説が残っている。

「戻橋」という名前の由来については、『撰集抄』巻七で次のように伝えられている。延喜18年(918年)12月、漢学者・三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子・浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。

『平家物語』剣巻には次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる。

戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。

その橋の名前から、嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は、嫁が実家に戻って来てはいけないと、この橋に近づかないという習慣がある。逆に、第二次世界大戦中の応召兵とその家族は、無事に戻ってくるようにと願ってこの橋に渡りに来ていた。

現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものである。一条戻橋の近くにある晴明神社には、それ以前の一条戻橋を、実際の部材を使って再現したミニチュアがある。

「一条戻橋」というバス停も存在する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%88%BB%E3%82%8A%E6%A9%8B」より引用

旧一條戻橋(晴明神社HPより):
http://www.seimeijinja.jp/guide/gui_02.html

安倍晴明・紫式部を歩く
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安倍晴明夢占い
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2006年03月02日

修学院離宮

修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は京都市左京区の比叡山麓にある宮内庁所管の離宮。17世紀中頃(1653年(承応2年)-1655年(承応4年))に後水尾上皇の指示で造営された。

修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかの−)、下御茶屋(しもの−)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ。各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。見学には、事前に宮内庁京都事務所に申し込んで許可を得る必要がある。

<下御茶屋>
池泉観賞式庭園で、門・塀以外の建物としては、書院の寿月観を残すのみである。寿月観は1824年(文政7年)の再建で、一ノ間、二ノ間、三ノ間を鍵の手に配し、柿葺(こけらぶき)の屋根を乗せた簡素な建物である。水墨の襖絵は後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師・岸駒(がんく)および岡本豊彦の筆になる。寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。

<中御茶屋>
後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められていた。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。

楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年(寛文8年)頃の造営である。書院造の客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。

<上御茶屋>
巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした壮大な庭園である。
御幸門から石段を上った離宮内の最高所に隣雲亭が建つ。ここまで登ると、急に展望が開け、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景が広がる。隣雲亭は1824年(文政7年)の再建で、展望を目的とした、装飾のほとんどない簡素な建物で、床(とこ)・棚も設けていない。内部は6畳の一ノ間、3畳の二ノ間と6畳間3室からなる。一ノ間北東の板張りの縁は「洗詩台」と呼ばれている。軒下の三和土(たたき)には赤と黒の小石が埋め込まれ「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれている

浴龍池には中島、万松塢(ばんしょうう)、三保ヶ島という3つの島があり、土橋、楓橋、中国風の千歳橋の3つの橋が架かる。中島には窮邃亭(きゅうすいてい)が建つ。窮邃亭は修学院離宮において創建当時のまま残る唯一の建築で、三間四方、柿葺(こけらぶき)、宝形造(ほうぎょうづくり)。内部は18畳1室である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E9%99%A2%E9%9B%A2%E5%AE%AE」より引用

桂離宮修学院離宮
桂離宮修学院離宮

京都で「建築」に出会う
京都で「建築」に出会う

修学院離宮物語
修学院離宮物語
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2006年02月11日

桂離宮

桂離宮(かつらりきゅう)は京都市西京区桂にある離宮(離宮とは、皇居とは別に設けた宮殿の意)である。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。もとは八条宮家の別荘であった。宮内庁京都事務所により管理されている。

参観には宮内庁京都事務所に事前申込みが必要である。

<歴史>
桂離宮は、17世紀に八条宮の別荘として造営されたもので、書院、茶屋、回遊式庭園から成る。近世の皇族の別荘の実態を伝えるものとして貴重である。

桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘(当時は「別業」といった)が営まれていたという。また、この地は風流な観月の名所としても知られていた。桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているという。

桂離宮は八条宮家初代の智仁(としひと)親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の養子となったが、秀吉に実子が生まれたため、養子縁組を取消し、八条宮を創設したものである。 桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮2代の智忠(としただ)親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。 八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年(明治14年)に断絶し、桂離宮は1883年(明治16年)から宮内省の管轄になった。第2次世界大戦後は、宮内庁が管理している。

<建物と庭園>
古書院、中書院、新御殿はいずれも入母屋造、柿葺(こけらぶき)で、書院造を基調としているが、古書院の縁側などには数寄屋風の要素も見られる。古書院縁側からさらに張り出した竹簀子(すのこ)のベランダ状のスペースは「月見台」と称され、桂離宮の主要テーマが観月にあることを示している。中書院と新御殿の水墨主体の障壁画は、幕府御用絵師・狩野探幽一門によるものである。新御殿上段の間の「桂棚」は天下三棚の一つとして知られる(他に修学院離宮、醍醐寺三宝院)。

回遊式庭園には、桂川の水を引いた池を中心に、茶屋、築山、州浜、橋、石灯篭などを配している。茶屋は松琴亭(しょうきんてい)、賞花亭(しょうかてい)、笑意軒(しょういけん)、月波楼(げっぱろう)の4棟があり、他に持仏堂の園林堂(おんりんどう)がある。

<評価>
昭和始めにドイツから亡命したブルーノ・タウトが絶賛し、装飾を排した簡素な建築美はモダニズム建築の造形美にも通じるとして評価された。同時代の建築である日光東照宮と対比されることも多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE」より引用

桂離宮参観申込要領:
http://sankan.kunaicho.go.jp/about/rikyu.html

宮内庁 参観案内:
http://sankan.kunaicho.go.jp/
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2006年02月05日

梅小路蒸気機関車館

梅小路蒸気機関車館(うめこうじじょうききかんしゃかん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営する蒸気機関車の保存展示施設である。

1972年、日本国有鉄道により日本の鉄道開業100年を記念して京都市下京区にある梅小路機関区の扇形庫を活用して開設され、1世紀にわたり、日本の鉄道輸送を支え続けた蒸気機関車を貴重な産業文化財と位置づけ、その動態保存を目的とした日本初の施設である。1987年の国鉄分割民営化にともなってJR西日本が引き継いだ。また、この施設自体が、現役の車両基地(梅小路運転区)であり、蒸気機関車の検査・修繕も行なわれている。

<施設>
施設は、旧梅小路機関区の扇形庫及び転車台を活用した「蒸気機関車展示館」と、旧二条駅舎を移築した「資料展示館」からなる。

旧二条駅舎は、1907年に京都鉄道が本社社屋を兼ねて建設した歴史的な建造物で、1996年の山陰本線(嵯峨野線)高架化にともなって駅舎としての役目を終え、1997年のリニューアルにともなって本館敷地内に移築されたものである。1996年4月に京都市の有形文化財に指定されている。

扇形庫には、大正から昭和にかけて製造された国産蒸気機関車16形式18両が展示されている。開館当時は、動態保存が原則であったが、2004年現在、動態保存機は7形式7両となっている。うち、5形式5両は現在も車籍を有し、2両(C571、C56160)は、山口線「SLやまぐち号」や北陸本線「SL北びわこ号」など、本線上での列車牽引に供されている。また、館内展示用の動態保存機の牽引による「スチーム号」を館内の線路で運転している。

扇形庫は、1914年に建設されたコンクリート製のもので、2004年に国の重要文化財に指定された。

<保存蒸気機関車>
9600形(9633)
8620形(8630) - 動態
D50形(D50140)
C51形(C51239)
C53形(C5345)
C55形(C551)
C11形(C1164)
D51形(D511)
D51形(D51200) - 動態(車籍あり)
C57形(C571) - 動態(車籍あり。本線運転可能)
C58形(C581)
C56形(C56160) - 動態(車籍あり。本線運転可能)
B20形(B2010) - 動態(2002年動態復元)
C59形(C59164)
D52形(D52468)
C61形(C612) - 動態(車籍あり)
C62形(C621)
C62形(C622) - 動態(車籍あり)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A%E9%A4%A8」より引用

梅小路蒸気機関車館 公式ホームページ:
http://www.mtm.or.jp/uslm/
posted by 西大路丸太 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 観光スポット(名所・旧跡)

2006年02月04日

五条大橋

五条大橋(ごじょうおおはし)とは、京都府京都市を流れる鴨川に掛かる橋であり、橋上を通るのは、五条通(国道1号)である。下京区と東山区の境界でもある。

五条大橋といえば、弁慶と牛若丸の伝説で有名であり、橋の西側、河原町通との交差点近くのグリーンベルト内には、その状景を模した京人形風の2体の石像を見ることもできる。

但し、平安時代の五条通は、現在の五条通よりも北に寄っており(=松原通)、当時の五条の橋は、現在の松原橋辺りであったと推定されている。

また、橋の西北側には、かつてこの地にあった御影堂(新善光寺)扇にちなんだ扇塚がある。

橋の東側は、地下に京阪電車の五条駅がある。また、その東に伸びる五条通が、西大谷や清水寺へと続く五条坂である。

源 義経(みなもとの よしつね、平治元年(1159年)- 文治5年閏4月30日(1189年5月17日)?)は、平安時代末期の河内源氏の武将。

河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。平治の乱で平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。戦後の論功行賞で十分な褒美を得られないどころか、一部所領を没収されたのを恨み、自立の動きを見せた為、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び奥州藤原氏を頼ったが、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E5%A4%A7%E6%A9%8B」より引用
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2006年01月31日

京都大学

京都大学(きょうとだいがく、英称:Kyoto University)は、京都府京都市左京区吉田本町に本部を置く国立大学である。1869年に創立、1897年に大学が設置された。キャンパスは吉田(京都府京都市左京区)、宇治(京都府宇治市)、桂(京都府京都市西京区)にある。大学スポーツなどで使用されている大学の略称は京大、スクールカラーは濃青である。

<大学全体>
京都大学は日本で2番目に創設された帝国大学の流れをくんでいる国立大学である。自由な学風を標榜しており、現在でも学生自治活動が活発に行われている。また、西部講堂に代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。

<建学の精神>
創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。国立大学法人となったあとに制定された京都大学の基本理念でも「自由の学風」が謳われている。

<学風および特色>
何事も学生の自主性に任せるという「自由の学風」を標榜しており、毎年盛大に行われる11月祭(November Festival)や折田先生像をめぐる落書きなどにもその一端を垣間見ることができる。しかし、改装や建てかえが進んで昔の面影が消え、それとともに学風が失われつつあるという声も一部で聞かれる。

<略歴>
京都大学の起源は1861年(文久元年)に長崎に設立された長崎養生所(その後長崎精得館へ改称)まで遡る。長崎精得館の理化学部門は当初江戸にあった開成所へ「理化学校」として移設することになっていたが、明治維新の混乱で実現しなかった。1868年(慶応4年)に明治政府は「理化学校」を「舎密局」(せいみきょく、後の理学校)として大阪へ開設することを決定、1869年に開校した。1870年、理学校は1869年に開設された洋学校と合併、開成所となる。開成所はその名称を大阪英語学校、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校と変遷させ、1886年に公布された中学校令によって、第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は1889年8月1日に京都市吉田町に取得した新校地へ移転した。1894年に公布された高等学校令に基づいて第三高等中学校は第三高等学校となる。

1886年の帝国大学令公布後、近畿圏に帝国大学の設置をという声があがっていたが、財政難のため見送られ続けていた。1895年に西園寺公望は日清戦争で得た賠償金をもとに第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行う。最終的に第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され、翌年予算処置が可決される。1897年6月18日に京都帝国大学設置に関する勅令が制定され、京都帝国大学が発足する。

創設時の計画では1898年にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しという形で、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された。続いて1899年京都帝国大学法科大学及び京都帝国大学医科大学、1906年京都帝国大学文科大学を設置し、約10年をかけて総合大学としての形を整えた。初代総長には文部省専門学務局長の木下広次が就任。事務局長にあたる「書記官」には中川小十郎が就任した。

当時の総長の意向もあって、従来の帝国大学の採った「知識と技能の修得を重んじるフランス式」とは異なる形で、「学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、ドイツの大学のシステムに倣った。高根義人の主導によるこの方針は現在の「自由の学風」に影響を与えたと言われ、法科大学の卒業生の高等文官試験での不振を端として転換されたものの京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となった事は確かである。

1919年に分科大学制が学部制に変わった。その年には、経済学部が法学部から分離して独立の学部となり、1923年には農学部の設置と学部の増設が相次いだ。農学部増設と同じ年には本部構内に京都大学のシンボルとして親しまれている時計台を持つ大学本館が完成している。1926年には京大初の附置研究所にあたる化学研究所が設置された。

昭和に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。1928年、文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求、教授会は河上の辞職を認める決議を出し河上は大学を追われる事になる。さらに1933年には鳩山一郎文部大臣が法学部の滝川幸辰教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にした事から法学部の全教官が辞表を提出、総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しにあい、結局滝川ら7人の教官が大学を去る事態となったいわゆる「滝川事件」が起きている。

戦時体制の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの国策に沿った講座が設けられ、太平洋戦争の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。

1943年、文系学生の徴兵猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都大学の学徒出陣壮行会では総長を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したという。

第二次大戦終結後、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた滝川幸辰らが大学に復帰した。創立五十周年にあたる1947年には大学名から「帝国」が削られ、京都大学と改称、1949年には第三高等学校を統合している。同年には、理学部教授湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞し、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置、その後湯川記念館は基礎物理学研究所に改組されている。

1968年、青年医師連合の京都大学の支部が医学部大学院入試ボイコットを呼びかけ、呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」を端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部はロックアウトされた。戦後はじめて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物のロックアウトは依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。

1992年、総合人間学部が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。 1997年に京都大学は創立百周年を迎えた。そして2004年、時代の流れにより国の改革のひとつとして国立大学法人法が施行されその規定により京都大学は国立大学法人に改組、発展を続けている。

本稿ではこれらの経緯から創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である1869年、設立は京都帝国大学が誕生した1897年としている。

<スポーツ>
京都大学のアメリカンフットボールチームは「ギャングスターズ」の愛称で知られ、大学チャンピオン6回、日本チャンピオン4回の経験がある、旧帝大系最強の運動部である。特に1986年と1987年は、QB東海辰弥ーWR福島伸一郎のホットラインで、甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)・ライスボウル(日本選手権)連覇を果たし、関西スポーツ界で阪神タイガース級の話題となった。
当初は「パワーギャング」というチーム名であったが、各個人を尊重するという意味合いを込めてギャングスターズと改称したらしい。長年にわたり関西学院大学と2強時代を形成していたが、近年は立命館大学の台頭などで低迷している。関西学生アメフトDIV1所属。

硬式野球部は関西学生野球連盟に所属し、旧関西六大学野球連盟時代に2度の優勝がある。帽子のロゴ「DB」はDark Blueの略で、京大のスクールカラー「濃青」にちなんでいる。

<学生食堂>
京大生協の食堂はそのメニューの数が日本一と自ら謳っている。特に学生食堂にはあまりないパフェが数多くメニューに並んでいる。西部講堂の付近にあるカフェテリアルネのパフェは16種類ものレギュラーメニューを取り揃えており、期間限定のメニューを含めると現在40種類近くが確認できている。また、南部食堂に併設される喫茶ブリュッケでも個性的なパフェが扱われている。中央食堂、吉田食堂、本部キャンパスのカンフォーラでもパフェがオーダーできる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6」より引用

京都大学 公式ホームページ:
http://www.kyoto-u.ac.jp/

京大会館:
http://www.kyodaikaikan.jp/

京都大学アメリカンフットボール部(ギャングスターズ):
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/gangster/
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2006年01月29日

嵐山

嵐山(あらしやま)は京都府京都市右京区の観光地。桜や紅葉の名所である。京都市街の西に位置し、平安時代に貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地となっている。嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋(とげつきょう)は嵐山の象徴になっている。なお渡月橋をはさんで上流が大堰(おおい)川で、下流から桂川となる。JR山陰線の北側には嵯峨野一帯の観光地が広がっている。

川沿いの景色2004年に温泉が掘削された。

観光シーズンになると渋滞が激しく交通が麻痺してしまうため、乗用車の乗り入れ規制や、郊外に格安の駐車場を整備しそこからバスで運ぶパーク・アンド・ライドの実験が行われた。

大堰川の上流の保津川の流域では林業が盛んであり、伐採した木材を京都の街に運ぶために川が使われた。嵐山はその終着点であり、現在では同じコースを船で下る「保津川くだり」が亀岡市から体験できる。


<主な観光スポット>
・天龍寺
・美空ひばり館
・法輪寺
・嵯峨野観光鉄道:トロッコ列車(冬季運休)
・小倉山
・鳥居形(五山送り火)
・亀山公園
・渡月橋
・嵐山公園(中之島)
・嵐山モンキーパーク(岩田山)
・周恩来歌碑

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%90%E5%B1%B1」より引用
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東映太秦映画村

東映太秦映画村(とうえいうずまさえいがむら)は、京都市右京区太秦東蜂ケ岡町にある一種のテーマパーク。東映の京都撮影所を公開したもの。

東映は1960年代後半から映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザもの映画で観客動員を保つ一方で、時代劇が斜陽になったことから1975年11月1日に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E5%A4%AA%E7%A7%A6%E6%98%A0%E7%94%BB%E6%9D%91」より引用


東映太秦映画村 公式ホームページ:
http://www.eigamura30.com/

東映 公式ホームページ:
http://www.toei.co.jp/
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2006年01月28日

祇園

祇園(ぎおん)とは京都市の主要な繁華街のひとつ。八坂神社(江戸時代までは祇園社)の門前町として鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通沿いに発展した。京都有数の花街であり、南座という歌舞伎劇場もある。

また、四条通と東大路の交差点は「祇園」交差点である(しばしば「祇園石段下」とも言う。)。八坂神社のことを祇園さんということもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92」より引用
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2006年01月26日

きぬかけの路

きぬかけの路(きぬかけのみち)は、衣笠山(京都市北区)のふもとに点在する五つの名刹(金閣寺、等持院、龍安寺、妙心寺、仁和寺)と堂本印象美術館、立命館大学といった文化・教育施設を結ぶ「歴史街道」のこと。美観風致地区に指定され、四季を通じて美しい情景が楽しめる。周辺にはレストラン、カフェ、洋菓子店、和菓子店、ギャラリーなどが集まり、多くの観光客で賑わう。

「きぬかけの路」という名前は、「仁和寺」を創建した第59代宇多天皇が、真夏の雪見を実現しようと衣笠山に白い絹を掛けたという古事に由来する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AC%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%AE%E8%B7%AF」より引用

きぬかけの路 公式ホームページ:
http://www.kinukake.com/
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哲学の道

哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区の遊歩道である。

南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疎水の両岸に植えられた桜はみごとで、春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわう。

哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%81%93」より引用

桜が綺麗なんだよね〜
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2006年01月22日

京都タワー

京都タワー(きょうとタワー)は、京都駅烏丸中央口前に一際大きくそびえ立つ展望塔。京阪電気鉄道のグループ会社である京都タワー株式会社が運営している。台座となっている京都タワービルの高さを加えた全体の高さは131m。1964年12月28日開業。設計は建築家山田守。構造設計は京都大学工学部建築学教室による。ろうそくの形をしている。

京都市内はもちろん、天気の良い日には大阪市内も望む事ができる。タワーを象ったキーホルダーなどが土産として売られている。また、京都タワーにはお天気カメラもあって、現在の京都市内の映像が映し出される。台座のビルにはホテルや名店街が入居する。地下3階には大浴場があり、京都駅に到着する夜行高速バスの利用客が多く利用している。

京都タワー株式会社はタワービル内の京都タワーホテルのほか、同アネックス(旧京都第3タワーホテル)、京都第2タワーホテルも運営している。

建設当初から、古都である京都にこのような建造物が必要なのか、賛否が分かれている。このためか、京都出身の監督による映画『ゴジラVSメカゴジラ』の劇中では、ゴジラの熱線によって破壊される演出が盛り込まれている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC」より引用
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二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条城町にある江戸時代の城。京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっている。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに、1994年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録された。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E」より引用
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2006年01月20日

京都御所

概要

京都御所は、1869年(明治2年)にその機能が東京に移るまで、歴代天皇の居所・執務所であった。現在(21世紀)の京都御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されている。

平安京建都当初の内裏は現在の京都御所よりかなり西方にあり、JR西日本二条駅の辺りに朱雀門があったという。現存の京都御所はもとは里内裏の一つで、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言い、元弘元年(1331年)、北朝の光厳天皇が最初に使用したものである。(里内裏とは、正式の内裏が火災等で使用できない際の臨時の内裏のこと。)ここにあった内裏は江戸時代だけで8回再建されており(うち6回は火災焼失による再建)、現存する建物は江戸末期の安政2年(1855年)、平安様式にならって再建されたものである。主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿、小御所(こごしょ)、御学問所、常御殿(つねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后御殿などがある。

建礼門

御所正面入口の正門。素木、切妻造、桧皮葺(ひわだぶき)、柱間1間の四脚門である。開門されるのは天皇や国賓の来場など、特別な行事の時のみである。左右の築地塀(ついじべい)には5本の筋(水平の線)が入っているが、これも塀として最高の格式を示すものである。この門を入り、丹塗り瓦葺の承明門(じょうめいもん)をくぐると正面が紫宸殿である。

紫宸殿

紫宸殿 右に見えるのは左近の桜御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた建物である。南庭(なんてい、だんてい)に面して南向きに建つ。入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、平面は33メートル×23メートルほどの規模がある。建具は蔀戸(しとみど)が使われている。規模は大きいが、華美な装飾のない、簡素な建物である。構造は中央の母屋の東西南北に庇を付した形になる。内部は板敷きの広い空間となり、高御座(たかみくら、天皇の座)と、御帳台(みちょうだい、皇后の座)が置かれている。高御座、御帳台ともに高さ約5メートル、平面八角形で、柱と柱の間に帳(とばり、カーテン)をめぐらし、内部には椅子が置かれている。高御座、御帳台の背後の襖は「賢聖障子」(けんじょうのしょうじ)と呼ばれ、中国古代の賢人32人の肖像が描かれている。これは平安時代からの伝統的な画題である。建物正面の階段の左右には「左近の桜」と「右近の橘」の木がある。

清涼殿

紫宸殿の背後西側にあり、東を正面とした建物。入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、建具に蔀戸(しとみど)を使う点などは紫宸殿と共通する。本来は天皇の居所兼執務所であったが、天皇が常御殿に居住するようになってからは、清涼殿も儀式の場として使われるようになっている。本来、居住の場であった名残で、建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られている。中央の母屋には天皇の休憩所である御帳台(みちょうだい)がある。その手前(東側)には2枚の畳を敷いた「昼御座」(ひのおまし)がある。ここは天皇の公式の執務場所である。母屋の北側(建物正面から見て右側)には四方を壁で囲われた「夜御殿」(よんのおとど)がある。これは天皇の寝室であるが、天皇の居所が常御殿に移ってからは形式的な存在になっていた。この他に西側(裏側)には鬼の間、台盤所(だいばんどころ)、朝餉の間(あさがれいのま)、御手水の間(おちょうずのま)、御湯殿があり、南側には殿上の間がある。これらの部屋の障壁画は宮廷絵師の土佐派が担当している。また、建物正面の庭には「漢竹」(かわたけ)、「呉竹」(くれたけ)が植えられている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80」より引用
posted by 西大路丸太 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 観光スポット(名所・旧跡)


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