2006年04月11日

烏丸通

烏丸通(からすまどおり)は京都市の主要な南北の通りの一つ。本来は「からすまる」と読むが、現在は「からすま」と読む方が多い。平安京の烏丸小路にあたる。北は北大路バスターミナル(北大路駅)の北側で、加茂街道と合流する。南は京都駅で分断されるが、久世橋通まで延びている。北大路通以北を除いて片側2車線の道路である。四条烏丸交差点周辺を中心として烏丸通は京都のビジネス街とされ、多くの銀行や会社がある。京都市営地下鉄烏丸線がその下を通っている。

烏丸通は、1877年に京都駅が誕生してから駅正面の大通りとなった。京都御所の西端を通り、京都駅を南北に交差するため、平安京の朱雀大路であった千本通に代わって、現在の京都のメインストリートとなっている。またこの通は、烏丸七条から烏丸五条までが国道24号、烏丸五条から烏丸北大路までが国道367号となっている。

<沿道の主な施設>
大谷大学
同志社大学
KBS京都
京都御苑 - 京都御所
地下鉄烏丸線の北大路駅から十条駅までの各駅
・阪急京都本線 : 烏丸駅
東本願寺
京都タワー
京都駅

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E9%80%9A」より引用

京都の不思議
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京都の地名を歩く
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京のご利益さんめぐり100選
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2006年03月07日

六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。それぞれ、六波羅探題北方・六波羅探題南方と呼ぶ。

承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれた。以前に幕府の支配下にあった土地に置かれた地頭を本補地頭と呼ぶのに対して、これを新補地頭という。また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴むために白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にした。

そのため、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたった。西国の御家人を組織し直し、京都の警備、朝廷の監視、軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まりである。探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方、南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。またその下には評定衆などの鎌倉の組織に準じた下部組織なども置かれた。

六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などのトラブルを処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。更に文永の役翌年の建治元年(1275年)には六波羅探題の機能はさらに強化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。だが、一方では権限に伴う実際の強制力は十分とは言えなかった。例えば、幕府の命令で有力寺社への処分を行った担当官吏が、後に相手側の僧兵の圧力に屈した幕府によって流刑などの重い処分を受けるという理不尽な事態も少なくなかった。また、幕府から直接派遣された「東使」と称される特使が朝廷との直接交渉や探題への指揮の権限を与えられるケースもあり、その権限は常に幕府中枢によって掣肘を加えられていたと言ってよい。従って、その事情をよく知る者の中には六波羅への赴任を嫌う者もいたと言われている。

元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、令旨に応じた足利高氏(尊氏)や佐々木道誉、赤松円心らに京都を攻められ、北条仲時らは京を追われて滅亡する。その跡地は現在、京都市立六原小学校になっている。ちなみにその近くに六波羅密寺がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8E%A2%E9%A1%8C」より引用

六波羅探題の研究
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徹底大研究日本の歴史人物シリーズ(4)
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2006年02月21日

聚楽第

聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、安土桃山時代に豊臣秀吉が京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都市上京区にあたる。)に建設した邸宅。

関白に就任した秀吉の邸宅として1586年(天正14)2月に着工され、翌年9月には完成。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、政務を行った。1588年(天正16)4月14日には、後陽成天皇の行幸を迎えて供奉し、権勢を示した。また天正少年使節や徳川家康との謁見もここで行われた。

邸内には千利休の屋敷も作られ、1587年10月には北野大茶会が催された。

1591年12月に秀吉が関白職を退き、甥の豊臣秀次へ譲らると、聚楽第も秀次のものとなり、再び後陽成の行幸が行われる。秀吉は94年に伏見城の築城に着手し、1595年に秀次が失脚し切腹させられると聚楽第も取り壊され、建物の大部分は伏見城へ移築された。

瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったという。邸宅であるが、本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、平城としての性格も備えていた。西本願寺の飛雲閣や、大徳寺唐門、妙覚寺(京都市上京区)表門など、聚楽第から移築された建物という伝承を持つ建造物がある。

近年の発掘調査により、瓦などが出土した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E7%AC%AC」より引用

聚楽第の金箔瓦
((財)京都府埋蔵文化財調査研究センター ホームページ):
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/news/kinpakugawara.html
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2006年02月19日

平安京

平安京(へいあんきょう)は、794年(延暦13)に桓武天皇により定められた日本の首都である。

<概要>
平城京から784年に造営した長岡京に遷都した桓武天皇が、794年に改めて遷都して成立した。わずか10年での再遷都には、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子に至る一連の騒動が影響しているとみられている。天武系の都から脱して天智系の都を造る意図もあった。

平安京は、現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものであるが、城壁は存在しなかった。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。

以上の京域は現在の京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通、西限の西京極大路は現在の葛野大路にあたる。

もっとも、右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始め、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。980年には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の範囲は無実となり、より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られる。

平安京(京都)は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能は次第に失うが、明治維新の際に東京に奠都されるまで天皇が居住していた。

なお、本来遷都の度に出される詔が東京(江戸)への「移転」の際には出されず、また東京を首都と定めた法令等も存在しないため、東京を首都とする法的根拠は無いとする見方もある。

<名称>
平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読むが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みした。普通、京の名前は地名を冠するのが一般的であるため、本来なら「葛野京(かどののみやこ)」としても良かったのであるが、前項で記されている長岡京での騒動が原因のひとつとして、再び遷都された理由により、新京では悪いことが起こらず「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという意味が込められている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC」より引用
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2006年02月16日

小京都

小京都(しょうきょうと)とは、古い町並みや風情が京都に似ていることから、各地に名づけられた街の愛称である。室町時代以降、各地の大名が京都を真似た町づくりをし、それが小京都の起源となった。

小京都と呼ばれる地域が集まる団体として「全国京都会議」が存在する。全国京都会議に加盟するには京都に似た自然と景観、京都との歴史的なつながり、伝統的な産業と芸能があること、以上3つの要件の一つ以上に合致し、総会に承認される必要がある。全国京都会議には小京都のほか、「本家」である京都市も加盟している。

<全国京都会議加盟自治体>
(京都府京都市)
青森県弘前市
岩手県盛岡市
岩手県遠野市
岩手県水沢市
宮城県柴田郡村田町
宮城県玉造郡岩出山町
秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)
秋田県湯沢市
山形県酒田市
山形県山形市
栃木県栃木市(「小江戸」とも)
栃木県足利市
栃木県佐野市
茨城県古河市
埼玉県比企郡小川町
埼玉県比企郡嵐山町
神奈川県足柄下郡湯河原町
新潟県加茂市
長野県飯山市
長野県飯田市
愛知県西尾市
愛知県犬山市
富山県東砺波郡城端町(現・南砺市)
石川県金沢市
福井県小浜市
岐阜県高山市
岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)
三重県上野市(現・伊賀市)
兵庫県篠山市
兵庫県出石郡出石町(現・豊岡市)
兵庫県龍野市(現・たつの市)
鳥取県倉吉市
島根県松江市
島根県鹿足郡津和野町
岡山県津山市
岡山県高梁市
広島県尾道市
広島県竹原市
山口県山口市
山口県萩市
愛媛県大洲市
高知県中村市(現・四万十市)
高知県安芸市
福岡県甘木市(秋月地区)
佐賀県小城郡小城町(現・小城市)
佐賀県伊万里市
熊本県人吉市
大分県日田市
大分県杵築市
宮崎県日南市(飫肥地区)
鹿児島県川辺郡知覧町

<その他の小京都>
北海道松前郡松前町(以前、全国京都会議に加盟していたが脱退)
青森県黒石市
岩手県西磐井郡平泉町
宮城県白石市
山形県米沢市
福島県会津若松市
福島県喜多方市
茨城県笠間市
群馬県桐生市
千葉県佐原市(「小江戸」とも)
千葉県夷隅郡大多喜町(「小江戸」とも)
山梨県甲州市塩山
長野県松本市
長野県小諸市
長野県長野市松代町
長野県上高井郡小布施町
長野県上伊那郡高遠町
福井県大野市(以前、全国京都会議に加盟していたが脱退)
岐阜県飛騨市古川町
静岡県伊豆市修善寺
静岡県周智郡森町
滋賀県近江八幡市
広島県三次市(以前、全国京都会議に加盟していたが脱退)
山口県下関市長府
徳島県美馬市脇町
愛媛県喜多郡内子町
長崎県島原市
大分県竹田市

●この他、「るるぶ」シリーズなどの旅行雑誌で「小京都」として紹介されるところがあるが、ライターの趣味的感覚で書かれていたり、地元観光関係者の自称であることが多い。ただし、こうした中にも全国京都会議への加盟を認められるところがある。

●旅行雑誌の中には、北海道函館市や小樽市、神奈川県鎌倉市、沖縄県那覇市首里などを「小京都」としているものもあるが、これはライターの趣味的感覚に他ならない。街並みの形成が幕末〜明治期であり、京都とのつながりも薄い函館・小樽や、一般的には京都・奈良と並び「古都」と称される鎌倉、また琉球王朝の都として、歴史的背景を異にする首里などを「小京都」と捉えることには疑問の余地がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BA%AC%E9%83%BD」より引用

全国京都会議((社)京都市観光協会ホームページより):
http://www.kyokanko.or.jp/shokyoto.html

小京都ドットコム:
http://www.little-kyoto.com/
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室町幕府

室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が創設した武家政権。鎌倉幕府に次ぐ、日本史上2番目の幕府である。室町幕府は、1336年に足利尊氏が北朝の光明天皇より、征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて京都に幕府を設置したことに始まり、1573年に15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放されて幕を閉じた。この間の230年余りを室町時代と呼ぶ。

足利義昭が京都から追放された後も、征夷大将軍の解任手続は行われなかったために、依然として信長に反対する勢力からは将軍として扱われている。「公卿補任」では、義昭が関白豊臣秀吉に従って参内して、秀吉への忠誠を誓った天正16年1月13日(1588年2月9日)まで将軍扱いとしている。政府の公式見解として、南朝を正統として南北朝時代を「吉野朝時代」と称していた戦前においては、初代尊氏・2代義詮・3代義満(南北朝統一以前)を正式な将軍とは認めていなかった時期が存在する。

「室町」という呼称は、3代将軍足利義満が将軍の公邸として造営した室町殿(通称・花の御所、現在の京都市上京区)に由来している。

<中央政治>
室町幕府の職制はほぼ鎌倉幕府の機構を踏襲している。将軍の補佐役の管領に侍所、政所、問注所、評定衆、引付衆がそれぞれ設置され、将軍を頂点に政治機構が構成される。室町幕府は守護大名による連合政権であり、足利家の執事職を起源とする管領は鎌倉幕府の執権ほどは実権が無く、幕政は原則的に合議制であった。将軍を補佐する管領には細川氏、斯波氏、畠山氏の三管とよばれる有力守護大名が交替で、侍所長官である所司には赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の四職が交替で就任した。三管の三氏と一色氏は足利氏の一門である。

<地方政治>
観応の擾乱が起ると足利尊氏は鎌倉に鎌倉府を設置し、後に室町幕府が東国10カ国を統括する機関となった。長官は鎌倉公方で足利基氏の子孫が世襲し、関東管領が補佐した。室町時代を通じて関東公方は中央と対立し、関東管領を務める上杉氏とも対立していた。さらに上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉氏に分裂し、応仁の乱で中央の統制が弱まると関東地方は騒乱状態となる。 九州には本拠は博多(福岡県福岡市)に置く九州探題が設置される。初めは懐良親王ら南朝勢力の討伐に任じられた今川貞世(了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は渋川氏の世襲となる。東北地方には奥州管領が設置され、奥羽2国が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止され、足利義満の時代には奥州探題が設置され、斯波家兼が任じられる。家兼の死後に羽州探題が分裂し、最上氏となる。

応仁の乱以降、将軍の権威が失墜すると細川氏以外の三管四職も没落し、さらに室町時代中期に至って細川氏の勢力が減退すると室町幕府の諸制度は形骸化していった。その間、国人と呼ばれる在地支配層が台頭し互いに整理統合されながら、強力な戦国大名が成長し、これが群雄割拠して幕府支配に取って代わった。

<財政>
室町幕府の財政は幕府直轄の御料所からの収入が主で、他に臨時の段銭や棟別銭などが徴収された。商人に対しては特権や保護の代償に営業税などを取り、各港からの津料、関所のからの関銭(通行税)も徴収された。足利義満が日明貿易を始めると貿易による収益も幕府財政となる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C」より引用
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2006年02月15日

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)とは、江戸時代後期から明治にかけて旧幕府軍と新政府軍の間で行われた戊辰戦争と呼ばれる一連の戦役の緒戦にあたり、慶応4年1月3日]](1868年1月27日)から6日(同年30日)にかけて、京都南郊の鳥羽、伏見(京都市伏見区)で発生した。

前年の慶応3年末に薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令にクーデターが起こった後、大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられる。

王政復古や薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行うと、慶喜の周囲では「討薩」を望む声もあり、慶喜は軍事的な京の封鎖を試みる。旧幕府軍主力兵は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進み、1868年(慶応4)正月3日の夕方に下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれる。鳥羽では総指揮官の竹中重固が不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵部隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍の小銃火力に敗れる。なお、この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった井上源三郎が戦死するが、彼の甥である井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとしたものの、あまりの重さのために仲間の隊士から諭されて、戦場の近くの寺院の境内に源三郎の首を埋葬したというエピソードが伝わっている。

旧幕府軍は淀藩主(京都市伏見区)稲葉正邦(慶喜の側近の一人で現職の老中)を頼って、淀城に入り建て直しをはかろうとした。しかし淀藩は新政府と戦う意思がなく城門を固く閉じ、旧幕府軍の入城を拒んだ。このため旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら緒戦にして5,000人の新政府軍に敗れた。翌4日も戦闘が続き、5日になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、新政府軍が官軍となる。これにより日和見を決めていた鳥取藩、山崎にいた津藩兵などの諸藩が新政府軍に付いた。このため、旧幕府軍の劣勢は決定的になった。

8日、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となった。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84」より引用

新選組 鳥羽・伏見の戦い戦死者
宮川数馬(3日に伏見で戦死)
和田重郎(4日に伏見で戦死)
中村吉六(4日に伏見で脱走)
玉川将之介(5日に淀千両松で脱走)
井上源三郎(5日に淀千両松で戦死)
今井祐次郎(5日に淀千両松で戦死)
真田四目之進(5日に淀千両松で戦死)
桜井数馬(5日に淀千両松で戦死)
諏訪市二郎(5日に淀千両松で戦死)
逸見勝三郎(5日に淀千両松で戦死)
青柳牧太夫(6日に橋本で戦死)
宿院良蔵(6日に橋本で戦死)
坂本平三(6日に橋本で戦死)
向館登(6日に橋本で戦死)
山崎烝(5日に淀千両松で負傷、13日に病死(異説あり))

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84_%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E3%83%BB%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E6%88%A6%E6%AD%BB%E8%80%85」より引用
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2006年01月23日

京都の難読地名

・不明門(あけず)
・化野(あだしの)
・一口(いもあらい)
・太秦(うずまさ)
・艮町(うしとらちょう)
・生田口(おいたぐち)
・黄檗(おうばく)
・樫原(かたぎはら)
・帷子の辻(かたびらのつじ)
・烏丸通(からすまどおり)
・勧修寺(かんじゅじ)
・雲母坂(きららざか)
・車折神社(くるまざきじんじゃ)
・蹴上(けあげ)
・久我(こが)
・直指庵(じきしあん)
・新ン町(しんちょう)
・直違橋(すじかいばし)
・糺ノ森(ただすのもり)
・栂尾(とがのお)
・椥辻(なぎのつじ)
・羽束師(はづかし)
・罧原(ふしはら)
・先斗町(ぽんとちょう)
・槇尾(まきのお)
・深泥池(みぞろがいけ・みどろがいけ)
・御陵(みささぎ)
・物集女(もずめ)
・巨椋(おぐら)
・祝園(ほうその)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E9%9B%A3%E8%AA%AD%E5%9C%B0%E5%90%8D」より引用
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2006年01月22日

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん、1467年 - 1477年、応仁1 - 文明9)は、室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1」より引用
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2006年01月21日

京都の歴史

京都は、桓武天皇が長岡京より平安京に遷都したことに始まる。それは、長岡京の建設責任者であった藤原種継が暗殺されたことや、南都寺院の影響から脱するためであった。天武系の都を脱して天智系の都を造るという意図もあった。

平安京は中国の風水に忠実に設計された都市で、四方を山に囲まれ、東に鴨川が西に桂川が蛇行しながら南へと流れている。内部は都城を模倣した長方形の区画をもっていた。現在の千本通が当時の朱雀大路にあたり、真北には舩岡山が位置していた。

平安時代の律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏・御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。鎌倉時代には政権の一部が鎌倉へと移行したために相対的に政治都市としての役割を失い、経済都市としての性格を強くする。承久の乱を契機に鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置して、公家勢力の監視を行う。鎌倉時代後期に足利尊氏が京都の六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われる。その後新政から離反した尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われる。南朝が衰微して、室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。足利義満は北小路室町(上京区)に花の御所と呼ばれる邸宅を建造し、応仁の乱で焼失するまで将軍家の在所となり、足利将軍は在所から「室町殿」と呼ばれた。

戦国時代の端緒となる応仁の乱で市街のほとんどが焼失し、その後もたびたび戦乱に巻き込まれて一時衰微する。この頃、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれていた。その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていた。この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、洛中に散在していた寺をあつめた寺町の建設などを行い、現在でもしばしばその都市構造を確認することができる。

17世紀には政治の中枢を江戸に奪われたものの都(首都)であることに変わりはなく、人口が50万人を越え、江戸、大坂に継ぐ日本第三の経済都市として繁栄する。江戸幕府は京都所司代を設置。

明治維新後は京都府が置かれ、それ以前からの「京都」は上京区と下京区に分割。1889年に上京区・下京区は府管轄下の「京都市」となった。

現在の京都市は、周辺の町村を合併したため、江戸時代以前からの伝統的な「京都」の範囲は厳密に言えば現在の京都市内の一部であり、現在の京都市と京都は同一ではない。ただし京都という呼称が京都市を指す場合も一般的である。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD」より引用
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